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東京地方裁判所 昭和41年(ワ)10771号 判決 1971年4月28日

原告(一〇七七一号一〇三三五号)

田中金二

代理人

栗田吉雄

被告(一〇七七一号)

横山道雄

同(一〇七七一号)

横山俊雄

同(一一三三五号)

横山邦雄

右邦雄法定代理人親権者母(一一三三五号)

兼被告(一〇七七一号)

横山スミ

右四名訴訟代理人

藤原輝夫

主文

別紙目録第一の土地と別紙目録第二の土地との境界は、別紙目録第五の甲乙丙点を順次結んで生ずる二線分(別紙図面甲乙丙線)であると確定する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の、その余を被告らの、各負担とする。

事実

第一  双方の求める裁判

一  原告―「別紙目録第一の土地(以下「第一土地」という。)と別紙目録第二の土地(以下「第二土地」という。)との境界が、別紙図面および別紙目録第三イロハの各点を順次直線で結んだ線であると確定する。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決

二  被告―「第一土地と第二土地との境界線が、別紙図面および別紙目録第四ABCの各点を順次直線で結んだ線であると確定する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第二  争いのない事実関係

一  第一土地は、大正二年四月一八日当時、東京市麻布区笄町一二二番ノ一所在宅地二五坪八合八勺として、訴外亡飯島正次郎の所有であつたが、同年五月七日原告先代田中竹次郎が右飯島正次郎から買い受けて所有者となつた。大正四年六月二八日、右竹次郎は、右二五坪八合八勺に近隣の土地を合筆して七〇七坪四合八勺とした(その後更に分筆により現在の地積となつた)。昭和四年一二月一三日右竹次郎は死亡し、訴外田中もとが家督相続により右土地所有権を取得し、更に昭和一七年一一月一六日右田中もとが死亡したため、原告が家督相続により右土地所有権を取得した。

二  第二土地は、もと原告先代田中竹次郎の所有であつたが、大正二年五月七日訴外亡飯島正次郎が売買により所有権を取得し、同人は大正一〇年一一月一日その所有権を訴外岡島善助に譲渡し、更に昭和二九年六月二五日右岡島から訴外亡横山義造に売り渡された。昭和三六年九月二一日右横山義造が死亡したので、被告らにおいて相続により右土地所有権を取得した。

三  第二土地は第一土地の東南側に位置し、両地は隣接しているが、原告が第一土地中第二土地の北側に接する部分約二四坪二勺を訴外高山守に賃貸し、同訴外人が右地上に建物を築造したところ、被告らは、第二土地の所有権が侵害されたと主張し、原被告間に、第一土地・第二土地の境界に関して見解の対立あることが明らかとなつた。

第三  争いある事実関係

一  原告―大正四年六月二八日、原告先代竹次郎が第一土地を前記のように七〇七坪四合八勺に合筆した際、隣接する第二土地との境界線がイロハの各点を直線で結んだ線である旨を訴外亡飯島正次郎との間で確認し、右各点に境界石を埋没し、以来、右境界内の第一土地を竹次郎、田中もと、原告が順次占有して来た。

二  被告―(イ)右は否認する。被告ら先代横山義造は、昭和二九年六月二五日訴外岡島善助から第二土地を買い受けるに際し、公図閲覧の上現地に就いて検分すると、B点・D点には既に境界石b・dが埋めてあり、またCD線すなわち訴外田中英之助所有の南側隣接地との境界には同人所有の石垣が設置されてあり、更に、第二土地東北角A点の外側には、下水管(a2)が埋設されていた。義造は善助立合の上、第二土地を実測し、ABCD点に囲まれた範囲として買い受けたものである。その後家屋建築の際下水管(a1)を義造方で設置したが、これはA点の目印となるものではない。

(ロ)右ABC点による境界は登記簿および公図に記載されたところに合致する。すなわち、DA間、AB間、BC間、CD間の距離として被告らの主張する値は、公図の寸法(間をメートルに換算)である8.00メートル、11.18メートル、6.36メートル、12.90メートルであるところ、検証の結果による実際の数値は、それぞれ8.00メートル、11.15メートル、6.40メートル、12.90メートルであつて、ほぼ一致している。また、原告ら主張のニイ間の距離10.28メートル(5.65間)は、むしろ、ニA間の距離10.30メートルに一致する。

(ハ) かりに、第二土地の前主である訴外飯島正次郎が第一土地の前主である原告ら先代訴外田中竹次郎との間で、右と異なるイロハ点を結ぶ直線・境界と認めたとしても、原告らはこれを以て第三者である被告らに対抗できない。

(ニ) 訴外横山義造は、前記買受直後、ABCDを結ぶ板塀を作り、これに囲まれた地所内全部を材料置場として使用し始め、その後昭和三一年一月から同年三月にかけて右地上一ぱいに家屋を新築居住し、その死亡後は被告らが共同相続により右土地の占有を承継して現在に至つている。従つて、かりに、ABC線が真の境界線を超えているとしても、被告らは、義造が材料置場としての占有を開始した昭和二九年から、あるいは家屋新築による占有を開始した昭和三一年三月から、十年間、ABCD線で囲まれた土地を所有の意思を以て平穏公然に占有を継続したものであり、占有の初め善意無過失であつたのであるから、おそくとも昭和三九年一二月末日あるいは昭和四一年三月末日、右土地中境界を超越した部分の所有権を時効によつて取得したものである。

三  原告―(イ)右被告ら主張中、ABC点が公図に示された寸法と一致するとの主張は争う。検証の結果によると、ニイ間の距離が10.30メートルである。

(ロ) 原告ら主張のロ点と被告ら主張のB点とは現地に就いて見れば、同じ境界石(被告ら主張のb)であつて、ロ点はその石の東北端、B点はその西北端に当るが、右石の北辺(Bロ線)は、イロ線を延長した線上に存する大谷石の壁面に合致するのに対し、AB線は右壁面の線に対し斜に交又することとなり、不自然である。

(ハ) 原告ら主張のリ点と被告ら主張のD点とは現地では同じ石を指すが、右は、第一土地と第二土地の境界を定めるには関係のない点であり、現にD点は、第二土地と隣地田中英之助所有地との境界であるか否かについて、被告らと右英之助との間に争いがある。

第四  証拠関係<省略>

理由

一検証の結果、現地上にそれぞれ指示されたイロハリ点、ABCD点を一枚の図に合せて表示すれば、別紙図面のとおりであることが認められる。すなわち、リ点とD点とは一致し、ハ点とC点とは一五センチメートルずれ、ロ点とB点とは二〇センチメートルずれているが、ハとC、ロとB、いずれも、指示する石自体は同一で、ただその石の表面の上辺中どの点を選ぶかで右の相違が生じているのである。

二さて、問題のイ点とA点とは、三〇センチメートルずれているが、双方の主張と検証の結果とから見て、次のように言える。すなわち、原告は、本件土地の北方電車通りに出る角のホ点から二点を経てイ点に至るまでの距離を北から南へ甲第三号証の四の実測図の示す間尺数値(別紙目録第三参照)によつて測定し、これによつてイ点を決定するに対し、被告らは、本件土地の南東端D点を基点とし、逆に南から北へ乙第一号証の示す間尺数値(別紙目録第四参照)によつて測定し、これによつてA点を決定しているのである。そして、前記ロ点とB点、ハ点とC点との違いも、詮ずるところ、D点を基点として乙第一号証の数値によつてC点B点を決定してゆく被告の方法が、逆にイ点から出発する原告の方法とくいちがつた結果であると考えられるから、原被告の争いは、結局イ点とA点とのいずれが正しいかに帰着するといつてよいであろう。

三この原告と被告とのそれぞれ依拠する証拠を見るに、<証拠>を総合すると、甲第三号証の四は、昭和一一年一〇月一〇日第一土地の地積訂正がなされた際附属書類とされたもので、右地積訂正には岡島善助すなわち第二土地の当時の所有者も、隣地所有者として同意書に署名していたことが認められるし、一方、<証拠>によれば、昭和四二年一一月頃(従つて、現在も同じであると推認できる。)登記所に備え付けてあつた公図には特に間尺数が記入されており、乙第一号証はこれを写し取つたものであることが認められるのであつて、原被告の方法は、その限りにおいてそれぞれ合理性を有し、にわかに是非を弁じ難いものがある。従つて、その他の間接事実を検討する必要があろう。

四境界石についてははつきりした心証を得ることができない。すなわち、原告本人の供述によれば、イ点に境界石が埋めてあつたが、その後被告ら先代義造が、その境界石の上に被告所有家屋を建築してしまつたため、現在ではこれを現認しえなくなつたというのであり、他方、被告スミ本人は、亡夫義造および前主亡岡島善助からの伝聞として「どぶいつぱいに」すなわち別紙図面(a)の下水管のある箇所として解すればA点に「石が入つている」と聞かされていたと供述しているが、この石もまた現認の対象となるものでない。

五そこで、右の「どぶ」なるものについて証拠を調べて見るに

(1)  <証拠>によると、大正一〇年一一月一日、第一土地所有者田中竹次郎と第二土地所有者岡島善助との間に地役権設定契約が結ばれ、第二土地を要役地とし、第一土地中第二土地に隣接した部分を承役地として、第一土地上の家屋の便所汲取等のため、岡島善助が第一土地を所有する間田中竹次郎は岡島が右隣接部分を使用することを承諾することを約したことが認められる。

(2)  <証拠>によると、右の承役地の下に開渠の下水(いわゆる「みぞ」)があつて、その上に板を載せてあつた。右土地の南隣第二土地の北辺はセメントで舗装してあり、その部分の道路に面する箇所には三尺幅の木戸が設けられていた、というのである。そして、原告本人の供述により成立を認めうる甲第九号証に記されている右手手前の×印のある石と左手奥の丸印ある石とのうち、×印の方が第一土地の南東端に相当する、と供述する。これによれば、右×印の石の左手の部分(丸印の石のある部分も含めて)が承役地であり、従つて、丸印の石の左手の石段の部分は、前記舗装された第二土地の部分で昔木戸を以て道路に面した箇所ということになる。

(3)  他方<証拠>によると、右甲第九号証の階段の部分こそ問題の承役地で、木戸は、検証調書附属写真(4)の下水管(a2)から岡島寄りについていたというのであるから、先の岡島証人の供述と異なり、承役地自体が道路と面するところに木戸が存在したように聞える。そして、原告本人は、更に前記丸印の石が第一土地に建てられていた川島の家の土台石であつて、×印の石は踏み石に過ぎないと供述するのである。しかし、戦前川島と並んで、第一土地に建てられた長屋に住み、戦後、第一土地の焼け跡を原告から借地している高山守自身は、証人として、焼ける前の家の土台は×印の石であつたと、右と撞着する供述をしていることは、原告本人の供述の証拠価値を減殺するものとしなければならない。

(4)  下水管についても、証拠上認定しうるところは、甲第九号証ないし検証調書附属写真(4)の右と左の二つの下水管(マンホール)すなわち(a2)と(a1)とのうち、左の(a1)は、横山義造が第二土地買受後に作つたものであるという事実に過ぎず、前記A点とイ点との択一に関して徴表となる事実を認定することができない。けだし、前段・前々段に見たように、第一土地上の家屋と第二土地上の家屋との間には、いわゆる承役地(甲第四号証の斜線部分)だけがあつたのか、それともその外に更に第二土地上の空地があつたのか、つまり、木戸は、承役地の入口に附けられていたのか、右の空地の入口(乙第三号証のAA'間)に附けられていたのか、について確実な心証が得られない以上、右の下水の点は、証拠上決定的な働きをなし難いのである。

(5)  以上のとおりであつて、「どぶ」ないし承役地に関する間接事実も、遂に有力な手掛りとなし難い。

六被告らは、公図の寸法との一致を強調する。そして、B、C点に関しては検証の結果に照して、被告主張のとおりであると認めることができる。これはたしかに有力な徴表たるを妨げないものであるが、先に第二節・第三節で見たようなA点・イ点決定に関する両者の方法の相違を考え合せると、被告ら主張の方が公図に近いことはある意味では当然のことであつて、別の方法に基いてイ点を決定する原告の主張との是非を比較する本件訴訟の場面では、決定的な意義を有するものではない。

七原告は、被告主張を正しいとすると、第一土地と第二土地の西辺隣接地との境界線(いわゆるイロ線の延長)と被告主張のAB線とが斜に交又することになるから不自然であると主張するが、一筆の土地を分筆する場合、右のような現象を生じることは決して稀れでないのであつて、他に斜交を否定する証拠が伴わぬ以上、主張自体失当というほかない。

八結局、以上考察して来たとおり、第一土地と第二土地の境界線がどこであつたかを確実な心証を以て認定することは、証拠上では不可能である。これは、直接の関係者の多くが死亡し、現存者は、副次的立場からの関与者ないし伝聞者であるものが多いこと、戦時中一旦焼けて後、第一土地占有者も第二土地所有者も交替し、また、いずれにも新築、増築が行われて、人々の記憶ないし証拠上の確認を一層困難ならしめた面があること、残された唯一の証拠というべき原告主張のイ点の境界石なるものが現在堀り出し得ない状態にあること、等によるのであつて、現段階においてはやむを得ないところと言わなければならない。ただ、強いて心証上の有利・不利を明らかにするとすれば、綜合的には原告に有利な心証と言えるが、確実な認定の心証には未だ達しないのである。

九そこで、進んで、被告主張の取得時効の主張について考えるに被告スミ本人の供述ならびに本件弁論の全趣旨によれば、横山義造は昭和二九年に第二土地を買い受け、昭和三一年三月に現在の被告所有建物を建築したことが認められるが、この建物が、AB線いつぱいに建てられたという被告主張は必ずしも採用できない。検証の結果および原告本人の供述により、イ点の境界線が被告宅の北東端近くの桶の下あたりに埋まつていると原告により指示されている事実からすれば、被告宅は、むしろイロ線いつぱいに建てられているというべきである。(AB線とイロ線とは極めて近接しているのであるから、一般的には、被告宅がAB線いつぱいに建てられているといつても差支えなかろうが、ここで問題になつているのはAB線とイロ線との択一なのであるから、その意味では僅かな差も表現上軽視すべきではないと考える)。

そして、第一土地の方にもAB線いつぱいに高山の建物が建築されている結果、検証調書附属写真(3)で認められるように、両建物間には極めて狭い空隙が残されているのみであつて、昔のように汲取りのための承役地使用ということもない現在では、この空隙の部分の土地を両家のどちらの住人が占有使用しているとも言えない(検証調書付録写真(5)によれば、右土地の道路寄りの部分に被告ら所有のバケツが置いてあることが認められるが、右認定を左右するに足りるものではない)。

右のように現在の占有を被告らに認めることができない以上、被告ら主張の、昭和二九年買受後の板塀作りのこととか、被告スミ本人の供述および甲第一五号証によつて認められる被告方借家人であるおしるこ屋「みの松」による使用等を以て、取得時効の要件たる占有を理由づけることはできない。これらから、証拠上、この土地部分の占有については被告側が有利であることは否めないが、この程度ではいまだ取得時効の要件としての占有を肯定せしめるに足りるものではないのである。そして、右のように現在の占有自体認定できない以上、いわゆる占有の初めにおける善意や無過失を論じる必要のないことは言うまでもない。

一〇以上判示のとおりであつて、原告に有利な証拠もあり、被告に有利な論点もあるが、要するに、これらを総合して、原告または被告らの一方の主張を全面的に肯定して境界線を認定するような心証には、遂に到達しえないのである。

一一しかしながら、本件訴訟は、いわゆる境界確定の訴の性質上、請求棄却の判決をなすことは許されないのであるから、裁判所に委ねられた権限により形成的に第一土地と第二土地との境界を定めることとする。そして、上叙判示のとおり、双方にそれぞれ有利な点、不利な点のあることならびにその他の諸般の事情を参酌し、検証の結果現地で確定したイ・ロ・ハの各点とA・B・Cの各点を対応させ、その中央点を連ねることで、双方主張を折衷することとする。すなわち、検証調書附属写真(3)(4)および(5)におけるイ点とA点との中央の点を甲点とし、同写真(6)(7)におけるロ点とB点との中央の点を乙点とし、同写真(8)(9)におけるハ点とC点との中央の点を丙点としたとき(別紙目録第五参照)、甲点と乙点、乙点と丙点とを結ぶ直線(別紙図面参照)を以て本件両地の境界と定めることとする。

一二よつて、訴訟費用も双方折半負担せしめることとして、主文のとおり判決する次第である。(倉田卓次)

目録

第一 東京都港区麻布笄町一二二番ノ一所在

一 宅地 五四二坪八合一勺

第二 同都同区同町一二五番ノ九所在

一 宅地 二五坪

第三 イ・ロ・ハ点

一 東京都港区麻布笄町一二二番ノ五所在宅地二八坪五勺(所有者梅津光次)の北東角(北土地の北側公道との境に設備された下水溝縁の脇)より南東二〇度の方向に13.981間の点を二点とし、二点から南東一九度の方向に5.65間の点をイ点とする。

二 右イ点から西方に六間の点をロ点とする。

三 右ロ点から南西四度の方向に三六間の点をハ点とする。

第四 A・B・C点

一 第二土地の東南角をD点とし、第二土地と東側公道との境界線に沿つて北方に8.00米(4.4間)の点をA点とする。

二 右D点から、第二土地と南側隣接地との境界線に沿つて西方12.90米(7.1間)の点をC点とする。

三 A点から11.18米(6.15間)で、かつC点から6.36米(3.5間)の点をB点とする。

第五 甲・乙・丙点

一 別紙目録第三の二点から道路沿いに南へ10.30メートル測つたところにあたる被告所有建物の北東端の側壁の外側の点(検証調書附属写真(3)(4)(5)のイ点)と、別紙目録第四のD点から道路沿いに北へ8.00メートル測つたところにあたり、右側壁の北方にこれと向い合う訴外高山守所有建物のコンクリート製の石垣の南東端の点(同A点)とを結んで、その中央の点を甲点とする。

二 甲点の西方イ点から11.05メートルのところにある石の東端の点(右(6)(7)のロ点)と、A点から11.15メールで同じ石の西端の点(同B点)とを結んで、その中央の点を乙点とする。

三 乙点の南方ロ点から6.55メートルのあたりでブロック塀が外の道路沿いの列から内側の列に変る前の、外側の列の南端の点(右(8)(9)のハ点)と、B点から6.40メートルで内側から右ブロック塀にほぼ直交する板塀の東南角の点(同C点)とを結んで、その中央の点を丙点とする。

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